あおいろ濃縮還元

虎視眈々、日々のあれこれ

赤い糸

バチェロレッテ2にハマっている。見る前は、1があまりにも良すぎたから2はどうかなーとか散々言っていたけど、1は殿堂入りしたものとしてもう旅番組として見ようと思った。そうしたらまんまとこの有り様である。バチェロレッテは、男同士の友情が見れるからいい。ブロマンス大好きなので。何を言ってもネタバレになりそうで何も言えない。私は長谷川さんが推し。

ところで本筋とはあまり関係ないけど、バチェロレッテ本人も参加メンバーたちも、尊敬している人を聞かれて「親」と即答していたことに面食らった。親を尊敬していて、家族は宝物だと思っているから、そういった家庭を築いていきたいと。スペックが高い人は、育ちが良い、つまり両親にたっぷり愛されて育った傾向が強いように思う。偏見かもしれない。

私は父のことが、愛しい部分もあるけど嫌いだし、母ともすごく仲はいいけれど昔うまく愛してもらえなかったことを多分ずっと忘れないと思う。両親なりに、試行錯誤しながら愛してくれていたんだとは思う。でも私は全く愛され足りなかった。だからこそ今、こんなにも愛されたくてたまらない化け物になってしまったんだと思う。

私が結婚したい理由は、バチェロレッテの彼らとは真逆で、温かい家族というものを幻想だと思っているから、それがどんなものなのか作れるものならこの手で作ってみたい。伴侶や子どもやペットや、家族にした者をとことん愛して愛し抜いて、愛され足りないなんて一秒も思ってほしくない。私みたいな思いはさせたくない。

虐待やネグレクトを受けたわけではないのに、旅行に連れていってもらったり大学にも通わせてもらったのに、恵まれた境遇だとは思うのに、それでも私はもっとわかりやすく愛されてみたかったし、この環境を嫌だと思ってしまうことが後ろめたくてつらかった。実家を出てかなりその呪縛からは解放されたけど、「尊敬する人は親」という話を聞いて、久々にそんなことを考えた。

今の家族は、ルームメイトみたいなものだと思っている。会えば仲良く話すけど、必要以上に干渉はしない。血縁を振りかざして踏み込んだりしない。きっと今はそれがちょうどいい。この形でいい。でも、自分で選べるなら、また違う形がいい。それでいいよねって今のところは思っている。

VOTE

選挙に行って外食するモー娘。の曲を私はリアルタイムでは聴いていなかったんだけど、それでも、選挙のときは同棲している彼氏と投票デートに出かける。せっかく同じ投票所に行くことができるので楽しまない手はない。今回は蕎麦を食べに行き、投票し、ユニクロでTシャツを買い、喫茶店で本を読んで帰った。若者は選挙に来ないなどと言われたくないから、手持ちでいちばんイケてる(と思っている)服を着て、イケてるイヤリングをつけ、テラコッタのマスカラをたっぷり塗って睫毛をありったけのオレンジにした。

 

昼、1300円とは思えぬ内容の蕎麦屋の日替わりランチを食べ、これで経営が成り立っているのか無駄にハラハラした。安くて美味しいものを食べると喜びを通り越してコスパの心配をしてしまう。サラダ、おろし蕎麦、海老とカボチャとしめじの天ぷら、キャベツのごま和え、煮物、自家製の豆腐、朴葉寿司、蕎麦湯、デザートに蕎麦粉で作ったコーヒーゼリーまで出てきた。都会で頼んだら2000円はしそう。しめじの天ぷらが震えるほどおいしくて、どうやったらあんなにサクサクで薄い衣がつくれるのか投票所に着くまで真剣に考えてしまった。しめじの素材の味と、衣の軽やかさが互いを引き立て合っており、ものすごかった。語彙力がない。

 

投票はあっさり済んだ。投票用紙は厳密には紙ではない、ということを思い出しながら。ところで鉛筆ぜんぶ消毒するの本当に大変だろうな。仕事で、アンケートを書いてもらってその時に使った鉛筆を毎回消毒したことがあったけれど、あんな少量ですら大変だったのに、選挙となると本当に骨が折れると思う。ありがとうございます。

 

私の世界一好きな美術館であるテート・モダンとコラボしたUTがあると昨日母に教えてもらい、さっそくユニクロへ赴いた。テート・モダンだけでなく、ルーブル美術館MoMAのもあった。全部可愛かったけれどもちろん私はテート・モダンのを買う。前面には建物のイラストが、袖にはロゴが入っていてたまらない。これが1500円でいいんだろうか。ちなみにテート・モダンはロンドンにある近現代美術館で、現代作家の絵の横になんの説明もなくいきなりピカソやダリが並んでいたりする。現代アートも凄くて、英語のキャプションが読めなかったとしても何を思って作ったのかばちばちに伝わってきて、アートって共通言語だなとしみじみ思ったのだった。絶対にまた行きたい。

美術館コラボUTのほかに、永井博とコラボしたUTがあった。永井博、本当に本当に好きなイラストレーターなので、我を失って大興奮してしまった。そもそも水辺が狂おしいほど好きだから、永井博さんの描くプールや海辺の絵にどれもこれも惹かれる。迷ったあげく、これも1枚買う。

安くなっていたノースリーブも買った。今まではんこ注射の跡や、脇汗をかきやすいのが気になって頑なにノースリーブを着ずにいたのだけど、単純に似合うから着たいと思って最近は強行突破するようにしている。今年の夏は、ノースリーブが似合うお姉さんになりたい。なる。

 

行きつけの喫茶店にて、浅煎りと深煎りのコーヒーを一杯ずつ頼んで飲み比べた。私は軽やかでフルーティーな浅煎りが好きなのだけど、今回は彼氏の頼んだ苦味よりコクのある深煎りのほうが好みで、ちょくちょく奪って飲んだ。普段、私はコーヒーでもクラフトビールでもなんでも、フルーティーと書いてあるものすべてに目がない。フルーティーの亡者である。本を読み、あいまに選挙やエジプトについて話しながら、二杯目はアイスココアにした。今まで飲んだアイスココアのなかでいちばんおいしくて震撼した。牛乳感がたっぷりで、氷が溶けてもあまり薄くならない。飲み物と一緒に神戸ショコラをひとつぶ出してくれるのも好き。今後ももっといっぱい通おうと思った。

 

いつもなら、家でうだうだと各々ドラマを見たりゲームをしたりして休日を溶かしていたはずだから、選挙にかこつけてたくさん出掛けられて嬉しかった。テート・モダンのTシャツが思っていた以上にすごく良くって、内勤の日に着ていっちゃお~!ともくろんでいる。

 

東京美術館はしごログ

こないだ、アーティゾン美術館と国立西洋美術館へ行った。アーティゾン美術館では、フランシス・ピカビアの「アニメーション」という絵につよく惹かれた。ここでいうアニメーションって日本のアニメのことではなく、多分ラテン語のアニマ(生命みたいな意味)から来ているはず。デザインも色彩も絵の具のかすれ具合も完璧に美しくて、既に1回行ったミュージアムショップにまた舞い戻って追加でポストカードを買った。

ロダンの「考える人」は思ったよりもかなり小さいサイズで、一瞬レプリカかと思ったがそんな訳はない。本物の考える人は、平均的な身長の女である私が抱きしめたらすっぽり包みきれてしまいそうなサイズだった。小柄な人間ぐらいはあるかと思っていた。

 

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「アニメーション」。絵の具の掠れすら計算されている気がする。我が家の本棚の一等地に置きました

 

 

 

国立西洋美術館の屋外にはこれまたロダンの「地獄の門」が置かれていた。こっちは笑っちゃうぐらい大きい。ゼミ旅行といった感じの学生たちが門の前で集合写真を撮っていたのだけど、十何人が集ってもまだ全然デカかった。彫刻家って、彫刻のサイズをどういう基準で決めて作っているんだろう。

モネの「睡蓮」がものすごく鮮やかで、大きくて、実際の池を眺めているような感覚があった。これを飾っている部屋自体も、ほかの部屋より少し特別な感じがした。暑さに脳をやられてうろ覚えなんだけど、壁が真っ白で余白が広々と取られていたような。オランジュリーを意識したのかなと思ったけど覚え違いだったらごめん。「舟遊び」も思っていたより相当大きなサイズの絵画で、写真で見るのとではやはり迫力が違った。写真ではなんとなく曖昧にみえる筆の塗りも、実際だとちゃんと揺らめく水面に見える。

ゴッホの「刈り入れ」「ばら」や、ルドン「至る所に瞳が燃えさかる」も鑑賞できて嬉しかった。「Everywhere Eyeball are Aflame」の訳し方、天才すぎないか?

とくに吸い込まれるように魅せられた絵が、ヴィルヘルム・ハンマースホイの「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」。ピアノを弾いている絵なのに、ものすごい静寂を感じて鳥肌が立った。しんと静まり返り、冷えた空気の満ちる室内で、時計の秒針と妻の弾くもの哀しげなピアノの調べが混ざりあって響いている。そんな印象。帰ってから調べたら、北欧のフェルメールと呼ばれる彼の絵は、しばしば「静寂」という形容詞で語られることが多いらしい。絵を見て衝撃が走ったのは久しぶりだった。ほかの絵を調べて思ったが、私はハンマースホイと女性の趣味が似ていると思う。だから好きなのかも。

 

(写真撮影もだいたいOKだったけど、個人利用の範囲というのにブログが含まれるかは微妙なので、気になった作品があったら各自調べてみてください。)

 

 

 

それと、どちらの美術館も建築がすごく美しかった。オフィス街にいきなり現れるアーティゾン美術館のビルは、最初にエレベーターで最上階まで上がってそこからどんどんエスカレーターで降りて展示を見て回る方式だった。じっくり展示室を歩き回ったあとに階段をのぼったりすると地味に消耗するので、これはありがたい。吹き抜けから別の階の展示がさりげなくチラ見えしたりしていて、それもたのしい。建築についてのこだわりをイラストでわかりやすく示した小冊子も置いてあった。


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オフィス街にいきなり現れる都会のオアシス

 

 

国立西洋美術館ル・コルビュジエの設計によるもので、世界文化遺産にも登録されている。ちょうどル・コルビュジエの手がけた絵画やタペストリーに関する展示が組まれていたのだけど、ル・コルビュジエ、おっぱい好きすぎるんじゃないか?と思った。なんだかどの絵にも豊満なおっぱいが出てくるような気がして笑ってしまった。建物とのギャップがあってよかった。

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ロゴ好き


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右にみえる彫刻も作品。おもむろにありすぎ

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建物の使い方がスゲーー

 

 

 

あ、あとアーティゾン美術館ミュージアムカフェのウニパスタが美味しかった。洗練されたTOKYOの紳士淑女の皆さまがいるなか、お土産でリュックパンッパンにした汗だくの独り者にも優しくしてくださってありがとうございました。ひとりでコースランチ初めて食べた。

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マッシュルームとチーズとの兼ね合いが最高なウニパスタをもって締めとさせていただきます

小川

いい感じに綺麗にまとまった文章を狙って書こうとすると、媚びたペラペラの文字列ができあがってしまって反吐が出そうになるので、取り繕わずに、そのまんま、フリースタイルで書けるようになりたい。その練習をしたい、錆つかないように。今日は仕事だった。シフト制で土日も普通に仕事があるため、いつもあまり曜日感覚がない。制服姿の高校生がひとりもおらず、通勤に向かう車の群れがまるでいないことに気付いて初めて、今日は日曜日だったと思う。世間の休日に働くのはむなしいが、世間の平日に休むことはそれ以上に甘美なことなので良しとする。PMSにしてはあまりにも腹が痛くて痛み止めを飲んだ。と思ったら案の定、4日も早く生理が来ていた。明日が休みでよかった。雨が降ると気圧で体調がおかしくなるけれど、花粉症は落ち着く。またしてもここに一長一短。最近、調整豆乳でミロをつくって飲むことにハマっている。仕事終わり、汗だくで帰宅してすぐシャワーを浴びる。そして髪の毛がびしょびしょのまま豆乳ミロを飲む。その一連の流れに幸せを、どうしようもなく感じる。少し前までは豆乳ミロではなくラッシーだった。今後は水出しアイスティーなどに取って代わられるかもしれない。そして寒い時期には白湯になる。そのように私の四季はおそらく巡る。フォロワーに頂いた「むらさきのスカートの女」を読んだ。あまりにも怖い本だった。私は怖い本が大好き。信頼できない語り手どころか、信頼できなすぎる語り手の話で、読んでいてずっと不穏で怖かった。「フーガとユーガ」を読んだとき以来の感覚だった。たった五十音の羅列で、幸福にも恐怖にも陥れることができるから言葉ってすごい。祈りにも呪いにもなりたい、私が文章を書くときはいつもそう願っている。腹が痛いので筆を置いてエアコンの設定温度を下げてくる。

 

死んでもいいと思いながら踊った

踊るつもりはなかった。6月29日、代々木第一体育館、大好きなバンドのライブ。最高気温は41度にものぼるという暴力的な猛暑にくわえて、花粉症とPMSであんまり体調も万全じゃない。そろそろ無茶がまかり通る年齢でもない。徹夜明けでモッシュピットに突っ込んでいた頃の私では、もう無いのだし。無茶すんなよお前の意味を込めてバンTじゃなくてノースリーブのコンビネゾンなんか着た。

でもちゃっかりコンバースを履いていた時点でたぶん踊りたかったんだと思う。

 

楽しみ楽しみと言っていたわりに、まるで勉強をしなかったテスト当日みたいに、不思議と実感がなかった。初めての新幹線に乗っても、フォロワーに次々会っても、フラワースタンドを目の当たりにしながら会場入りしてもまだ、多少の実感はあれどふわふわしていたと思う。どこか雲の上を歩いているみたいだった。

 

会場BGMが消え、客席の照明が消え、SEが流れはじめたらあとはもう夢中だった。頬の筋肉と涙腺があからさまにゆるむ。気がついたらめいっぱい手拍子を送り、右手を振り上げている。変に気負うこともなく、ただ目の前に差し出された曲を、全身で素直に受け止められている気がした。どんなビートにも思うがまま肩を揺らし、ぴょんぴょん跳んだ。

 

代々木第一体育館じゅうを踊らせる彼らを見て、私もまた踊りながら思ったのは、「私もこうなりたい」ということだった。彼らが音楽で心も身体も踊らせてしまえるように、私は私の方法で、だれかの心を揺さぶりたい。心を踊らせたいし、ずっと記憶に残り続けたい。彼らのようになりたいし、あわよくば彼らと仕事がしたい。カッコイイなあ、羨ましいなあ、と思った。社会に出て変にカッコつけるようなつまらない大人になってしまったのが自分でもわかっていて、でもそういうのはきっぱり辞めたかった。何かと言い訳をつけてずるずる先延ばしにして、こんなんでいいと思ってるわけない。ああなりたい、じゃなくて、なる。そう決めた。

 

オドループで私は、死んでもいいと思いながら踊った。小さなライブハウスで、人で揉みくちゃになりながら、汗のにおいと熱気にまみれて必死に手を振り上げていたあの頃。その時とまったく同じように、ただ必死で踊った。両隣に人がいないアリーナなのに。暑くてしんどかったのに。いい大人なのに。でもそういうの全部笑っちゃうくらいどうでもいい。無茶が祟ってこのまま死んでもいいと本気で思っていた。昔から、幸せの絶頂にいるとき、このままぽっくり死んでしまいたいと思う。幸せだった。あの瞬間、とてつもなく。そういうふうに思えたことが嬉しくて、そんな感情を生み出させてしまう彼らが羨ましくて、たくさんの強い気持ちがごちゃまぜで、汗だくでただ踊った。

 

花粉症由来の咳を必死に堪えていて、あまり覚えていないのが残念だけど、武さんが仰っていた「今日の公演を10年後に見返しても全く同じ感動は得られない、だから今日のことを覚えていたい(とても意訳)」といった言葉に胸打たれて、それでは私も今日思ったことを忘れないうちに、美化せずに、書こうと思った。ライブで起こったことのみを感動的になぞることもできるかもしれないけど、美談じゃない感想を書きたかった。

 

帰りの電車、頂いたさまざまなお土産やグッズをかばんにパンパンに詰めて、夕飯作りたくないからって家で食べる駅弁まで持って、明日働きたくないなあと思いながらこれを書いた。食べすぎてお腹が張って痛い。

甘い水

充実した休日を過ごした。31日お試し加入しているU-NEXTで、ずっと気になっていた「レディバード」を観る。私はこういう、ナード系主人公のティーンものが大好き。背伸びして煙草を吸ってみたり、初めての恋人に浮かれまくって痛い目を見てしまったり、パーティーやプロムには憧れども馴染みきれはしないような、そういう感じの。レディバードの母が彼女を空港まで送るシーンでは、縁もゆかりもない土地に旅立つ私を見送る母もこんな気持ちだったのかな、と思ってぼろぼろ泣けてしまった。とはいえ、貴方のためを思ってるのだと善意をふりかざしてくる母親と、その気持ちが分からないでもないけどどうしようもなく反抗してしまって苦しい娘の描写、身に覚えがありすぎて胸がキュッと痛い。レビューを見ると、ぶっ刺さってる人と全く良さがわからなかった人とで綺麗に二分していた。そりゃこの映画は優しい家庭でまっすぐ育った人間には何もわかんないだろうなと思った。私はひねくれた家庭の出なので身悶えするほど共感した。面白かった。

 

私はとんでもない暑がりであるのだが、だからといって薄着でいるとすぐ腹を冷やして下してしまう。生き物として弱すぎる。試行錯誤した結果、ノースリーブワンピの下にシルクの腹巻きを仕込むというスタイルが最もいい塩梅だった。上半身と足は涼しく、腹はしっかり守られている。その格好のまま昼寝をしても腹痛に見舞われることがなく、ちょっと感動してしまった。ちなみにシルクの腹巻きは、生理のとき腹は冷やしたくないけど夏にカイロ貼るのはつらくない?と思って買った。それから下味冷凍の肉を仕込んだ。今月後半の激務に向けて、わさびチキン、香味野菜チキン、レモンハーブチキンの3種類を用意しておく。こうすれば献立を考えなくても、ただジップロックの中身をフライパンにあけて適当に焼くだけでやり過ごせる。にんじんと玉ねぎのピクルスまで仕込み終えてひと息ついていたら、帰宅途中の彼氏から電話があった。川に蛍がいるというので、部屋着にシャツだけ羽織って家を飛び出した。そういえば夜に水辺なんて行くことがなかったから、今まで蛍をみたことがないと気付く。初めてみる本物の蛍は、イメージしていたぼんやり舞う光とは違って、チカッ、チカッと点滅する懐中電灯のようだった。思っていたよりくっきりと明るい。何も知らずに見たらすぐ蛍だと気づけただろうか。こっちの水は甘いぞ、というフレーズを思い出したけれど、あれって誘い文句にしては弱いんじゃないか?

わかんない、をスパイスに

美術館へでかけた。ミロの名前がジュアンだったかジョアンだったかも定かではなく、なんかあの可愛い抽象画みたいの描いてる人だよねというレベルのうっすい状態でミロ展を観た。私は印象派が好きで、それはたぶん印象派の人たちがジャポニスムに影響を受けたせいであり、だから印象派でなくとも日本を愛したというミロの絵もきっと好きになれるだろう、というむりやりな三段論法のもとに。コレクション展とショップを含めて1時間ちょっとしか観る時間がなかったため、人が群がっているところの解説はすっ飛ばして、空いているところだけつまみ食いのように鑑賞した。

 

ミロの絵は全体的に、可愛らしい抽象の人物画、という感じ。クレヨンで描いた子どもの落書きみたいなものがあり、おならや女性器をテーマにした作品があり、扇子をエキゾチックに描いたり、習字に影響を受けた墨汁をこぼしたような絵や、浮世絵をそのまま貼り付けてコラージュした絵もあった。パッと見てわかるものもあれば解説を読んでもわからないものもあった。解説と絵を交互に凝視していたおじいさんが、降参したように「わっかんねえ……」と独りごちていた。でもそれでいいんだと思う。わかりやすいものだけが優れたものではないし、仮にそう思っていたなら私はUNISON SQUARE GARDENなんて好きにならない。

 

私は美術館賞が好きだけど、全部わかる必要なんてないと思う。ほんとうに。作者の歩んできた人生、生まれた国の情勢、その時期の美術史の流れや表現技法のことを、学べば学ぶほど楽しいのは確かだけれど、なんにもわからなくてもパッと見ただけで印象が伝わるのが絵(作品)だと思うし。なんかわかんないけど可愛いなーとか、よくわからんけど怖い感じのする絵だなあとか、そういうのでいい。何を描きたいのかすらわかんないけど、難しいことを考える人がいるもんだなあ、というのも感想のひとつだと思う。わからないから考える。わからないからそこに至った過程を想像したり、調べたりする。結局答えは見つからなくて謎が深まるだけかもしれないけど、これはもしかしたらこういうことを言いたかったのかもしれない、という考察が生まれる。ミロとは全然関係ないんだけど、UNISON SQUARE GARDENというわかんないバンドを好きになってから、そんなふうに「わからない」を楽しめるようになった。だから、半分くらいあったわからない作品も想像の余地があって楽しかった。

 

この記事が響いた人はUNISON SQUARE GARDENの「流星のスコール」を聴いてください。「mix juiceのいうとおり」でもいいです。