あおいろ濃縮還元

虎視眈々、日々のあれこれ

設計図

ひとりで生きていくものだと思っていたから公務員を目指していた。仕事とかバリバリできるタイプじゃないし、会社員を選んだら何度かの転職を経てややホワイトな企業に落ち着き、特に昇進することもないまま万年平社員として静かにキャリアを閉じていくのだろう、ということは容易に予想できた。それならば勤続年数と給料の比例する公務員になり、マンションや猫なんか買えるぐらいの経済力を得て人生を謳歌するのだと。消極的な理由から、そうした人生設計を立てていた。

 

でも、思い描いたどちらの人生もきっとifに終わる。公務員になれなかった私は、もうすぐ田舎に移り住み、そう遠くないうちに結婚するだろう。ひとりで生きていくほうが偉いとも、だれかと生きていくことが尊いとも、偏った論争を振るうつもりはない。どちらにも、だれにも計り知れない覚悟があって、それぞれの険しい道のりがある。メリットやデメリットを比べたりしたいわけじゃなくて、「私はひとりで生きていくのだろう」と物心ついた時から思っていたことが突然ひっくり返って、案外順応している自分に戸惑ってもいるし安心してもいる。ただただ複雑な気持ちでいる。そのことを、言葉にできない気持ちのことを、文字にして整理したくてこうして書いている。

 

私の彼氏は絵に描いたような健やかな人間である。温かい家庭で何不自由なく育ち、勉強もスポーツも仕事も要領よくこなす。俗に言うハイスペでスパダリなんだと思う。付き合う数年前から彼の人生設計はよく聞いていた。就職したらすぐにでも結婚したい。子どもは2、3人もうけて田舎に一軒家を買う。いずれはオープンカーと大型犬がほしい。絵に描いたような「幸せな家庭像」のお手本だな……と思っていた。

 

彼氏はモテない訳じゃないし、いい男だし、この先私と別れたとしてもすぐにほかの人を見つけて着々と理想の人生を叶えていくのだろう。私はそういう絵に描いたような家庭像に、強烈に憧れはしないけど、叶えるのなら私がいいと思ってる。都会に住みたいし子どもは1人でもいいし猫かチワワが好きだけど、それでも、自分ひとりだったら思いつくことすらなかった他人の人生設計に飛び込んでいけるの、すごく楽しそうじゃない?と現時点では思う。

 

消極的な理由で選び取ろうとしていた道のことは白紙に戻してしまえばいい。まったく新しい方角に舵を切ることは怖い。怖いけど、どの道に進むためにも無様に足掻くしかないんだから、歯食いしばってなんとかやってる。そういうことを最近はずっと考えていて、人生の転換期にいる実感をひしひしと噛みしめている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結婚するだろう、なんて書いたらそれ自体も消極的に見えるかもしれないけど、私はずっと「この世で自分が一番大事だから、自分よりも大切な人間が存在するってどういうことなのか知りたい。それを見つけることができたら、そのひとと結婚したい」という思想を唱えていて、そして、ようやくその思想の果てを見たんだと思う。だから。

 

皮算用

つかの間の休みにマニキュアを塗る。青や黒や緑が好きだけど、最近スティーブ・ジョブズかというぐらい黒のタートルネックしか着ないから、暗い服装になるべく映えるように紫がかったピンクを塗る。休み、といっても接客バイトの休みであって、キッチンバイトと教習所通いは絶えずあり、"爪にとってのオフ" であるというだけで私自体は稼働し続ける。最近は、寝る前に交わす彼氏との電話と、ZINEをつくっているときだけが楽しい。もしたくさん売れて収益が出たとしたら何を買おうかと、売らぬZINEの皮算用をしているときがいちばん楽しいかもしれない。ブルーライトカットメガネが欲しいな、クリアのやつ。

 

こんなに運動神経が悪くて運転なんてできるのだろうかと思っていたけど、そして初ドライビングはあまりにも絶望的だったけれど、3回目ともなるとかなり慣れてきた。貴族のような運転がしたい。でも、気のせいだったら申し訳ないが、私と同い年だという先生からほんのりと下心めいたものを嗅ぎ取ってしまって居心地が悪くなった。あの、ほんの少しだけ下心を抱かれているときの、本人すら気づかないぐらいの妙な優しさ、みたいなものが苦手だ。甘ったるすぎる炭酸飲料を飲んでいるときのような気分になる。甘ったるい炭酸飲料といえば、時たま自販機で見かけるファンタのルロ味というのが気になっている。絶対舌に残るタイプの甘ったるさだろうなあ、と勝手に思ってる。

 

列をなす灯

慣れるまでは8時から、といわれていたバイトが4回目の出勤にして7時からになった。6時台の外はまだ仄暗く、心なしか空気も湿っている。犬の散歩をさせているおばあさんも、工事のおじさんがたもまだいない。まちは半ば眠っていた。最近観た「パンとバスと2度目のハツコイ」という映画を思い出す。主人公の女の子がうんと早起きしてまでパン屋で働くのは、まだ眠っている早朝のまちを見たいからだという。白く灯った蛍光灯の群れのなか、1本だけオレンジに光るものがある。朝と夜の境目みたい。オレンジの蛍光灯からこちらは夜、あちらは朝、といったふうに。退勤後、ホットコーヒーを買う。クーポン利用で80円。もうマフラーが必要なほど寒い北海道で、ホットコーヒーは家に着くまでのカイロ代わりを兼ねうる。手っ取り早く引越し費用を貯めるための単なるつなぎとして選んだバイトだけど、私はやっぱり田舎のコンビニエンスストアで働くのが好き。

 

穴熊

ほっといたら昼まで寝ているのがもったいないと思い、朝から昼にかけてのバイトを増やした。起きられるか不安だったものの、アラームが鳴る前に目覚めた。歯を磨き、顔を洗い、ごはんを食べてスクワットと腹筋までした。血行がよくなりそうだと思って白湯も飲んだ。一歩踏み出した瞬間から、朝のきりっと澄んだ空気が身に染みる。羽虫と登校中の学生を避けながら歩く。「Wake Me Up」の音の粒がイヤホンのなかでダンサブルに跳ねている。早起きは苦手だけど、朝特有のなにかが始まりそうな引き締まった空気は好き。いまの私、かなり健やかだ、と思った。私の愛読書の「リレキショ」でいうところの穴熊みたいな生活を抜け出して、社会に参加している感じがした。

 

数年ぶりのコンビニバイト、初日は掃除と品出しを教わった。前のコンビニでは初日からバチバチにレジを打ったし、ホールのバイトをしたときは訳もわからないままオーダーを取りに奔走しまくったものだから、すこしだけ安心した。彼氏が退勤時間に合わせて送ってきたLINEが嬉しくてしょうがなかった。もともと私が彼氏の出勤前と退勤時に労りのLINEを送っていた(これをマメで嬉しいと捉えるか重くてウザいと捉えるかは人次第だから真似しないで)のだけど、される方になってみるとめちゃんこ嬉しいななんだこれ!と思った。今までやっててよかった。真似はしないでほしいけど。初出勤を乗り切ったご褒美に、チーズフランスとシナモンドーナツを買った。あったかいコーヒーも。最近やっとブラックコーヒーが美味しく飲めるようになり、馬鹿の一つ覚えのように頼んでしまう。お酒覚えたての学生みたいでかわいいね、ということにしておいて。眠くなってきたから布団にもぐってまた穴熊にもどろうか。

 

いつだって移ろいのさなか

何度だってどん底から這い上がれるみたい。きっと人より打たれ弱いけど起き上がるのも人一倍はやいから、また見くびった神様がありったけの試練を私の行く末に積み重ねる。悪路上等、北に生まれたものだからハイヒールで雪道を歩くのは得意なの。ここには咲かない金木犀の香水をさっと振りかけて、秋冬のコートに袖を通すとバスに飛び乗った。すべては移ろう。久々に訪れた行きつけのカフェは、感染対策のために読み放題だった本を撤去していた。おひとりさまの客たちが行儀よくページをめくっていた空間には、サラリーマンたちが集ってスポンサーがどうの地域貢献がどうのと仰々しく語り立てている。私はイヤホンを嵌める。すべては移ろう。ついそこで買ってきた手紙小説の封をうまく開けられず、びりびりに破いたけれどそれも味ということにする。大人に占拠されたカフェはひどく居心地が悪く、次の予定までの時間を潰すためにこれを打っている。ホットで頼んだカフェラテだかカフェオレはとっくに冷めた。耳の中では私の大好きな曲がちいさく鳴っている。はじまった、はじまった、はじまってしまったんだ。そう、はじまってしまったのだから最後まで駆け抜けるほかないのだ。何度問われたって覚悟ならとっくの昔に決めている。馬鹿な女と思われてもいい、とは思うけど、私の好きな人たちには分かっていてほしいとも我儘なことを思う。ずっとひっくり返すためのレールを敷いている。ずっと。ずっとだ。どんな悪いことも結局はハッピーエンドにつづく助走なんだって、本気で信じてるから。すべては移ろう。行きつけのカフェの顔ぶれも夜の長さも街に漂う風も、私もあなたも。

重ねる

いろんなことが日夜ぐるぐる、ぐるぐるまわっているけれどそれでも今日を生きるのだ。日が短くなりましたね。寒くもなった。最寄り駅前でいつも客引きをしているお兄さんはもこもこの白いマフラーをまとっていた。北海道の秋は東京の冬のはじまりぐらいの寒さなので別段おかしいことでもない。高校まで自転車で通っていた3年間、10月にもなればマフラーと手袋がなければかじかんでとても耐えられなかった。11月か、12月に早めの雪が降りはじめてようやくマフラーチャリ通学とはおさらばできる。バス通学にも暖房にも切り替えられないインターバルの季節がずっと嫌いで、だから今でも秋は嫌い。本州に引っ越せばあっさり秋が好きとか言い出すんだろう、私のことだから。この頃はわからないことばかりだけどそれでもパンプスに踵を痛めて涙を拭って時々はパブのカウンターで黒ビールなんか流し込みながら息継ぐ間もないどうしようもなく苦しい今日を生きる。生きる。生きるしかねえんだろ。

なのに

いま、敏感な人は本当にこれは読まないでほしいけど、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

という前置きをしたうえでこれを読む人は同じように思っているかもしれないが、心底うんざりしてる。辟易してる。社会の情勢にじゃない。身の回りにこんなに馬鹿が大勢いると思わなかった。まだ若かったのに、とか、あんなに格好良かったのに、あんなに綺麗だったのに、家庭があったのに、仕事熱心だったのに、あんなに素晴らしい人だったのに、片鱗なんてなかったのに、勿体ない、どうして、なんて馬鹿みたいなことを、自分の身の回りの人が言い出すのを聞くのにはもううんざりしてる。恋人いなかったのかねえなんてピントのずれたことを言われるたび、この人は私がいきなり死を選んだって絶対にわかってくれないんだろうなと思って静かに絶望する。

 

若くなければ、格好良くも可愛くもなければ、親友も家庭もいなければ、見上げるような素晴らしい人物じゃなければ、じゃあ死んでもいいのかと言えば、絶対に違うと意見を翻すのだろう。いのちは平等なのだと、そういう説教じみたことを私は言いたいのではない。いくつもの「なのに」を積み重ねてもひとは死ぬ時は死ぬのだ。

 

毎日、死にたくなる。仲のいい家族や友人たちがいて、愛する彼氏がいて、打ち込める好きなことがあって、未来があって、それでも私は毎日死んでしまいたいと思っている。ふっ、と、糸が切れたようにいつ自分が死んでもおかしくないと思っている。結婚の話を着々と進めていたってそれとこれとは別で、言いようのないあの気分に襲われているときは周りの人間が悲しむかどうかなんて1ミリも考えられなくて、ただ死にたくなる。ありったけ愛を囁かれた翌日にトラックに飛び込んでしまいたくなる。結局私は死に至ってしまうほどの痛みを受け止める勇気がないチキンだから自死なんて選ばないけど、選択肢はいつだって脳裏にちらつく。周りからいくら恵まれているように見えたところで、死にたいものは死にたいと思ってしまう。

 

なんでどうしてと嘆かれている渦中の人間に、気持ちはわかるとかそんな烏滸がましいことは言わないけど、ただ「他人事じゃない」と思うのだ。他人事じゃない。本当に、他人事じゃない。