5時に目が覚める、なぜだか二日連続で。ここのところずっと、10時過ぎにのそのそと起きて家事を始めるゆるい専業主婦をやっていたのに、体内時計がいきなり健康的に狂った。隣で眠る夫を起こさないようにベッドを抜け出し、水を飲む。残暑にほだされた水道水はまだ少しぬるいけれども、起き抜けの体にちょうどいい。起き抜け、という言葉が好きだということを思い出す。
カーテンをわずかに開ける。夜がだんだん色づいて、朝の光がひらいていく様子は美しく、なんだか物悲しくある。夕焼けのときよりも朝焼けのほうが哀しいような気持ちになる。これをエモいというのだろうか。エモいという言葉にまだうまく馴染めないが、私の書く文章はしばしばエモいと評されることがあり、それは面白いなと思う。
白湯を沸かす。昼間なら気にならない湯の沸く音も、何もかもがしんとした早朝のなかではやたら大きく聞こえる。昨夜から生理痛がひどく、連休で帰省するはずだった義実家に私だけ行けなくなって切ない。 生理のときは痛くて動けないだけでなく、情緒が手負いの獣でしかなくて誰にも会えない。普段はだいたい幸せに生きているが、生理前は落ち込んで泣きまくり、生理が来ると些細なことでも怒り狂ってしまう。私の喜怒哀楽はちょうど1ヶ月単位でバランスが取れるようになっている。
だいたい幸せ、というのは、いつも都合よくいいことばかり起こっている訳ではない。むしろ散々な日のほうが多い。それでも、生理前の微熱に2週間苦しんでも、ガラスの破片が足に突き刺さっても、好きなYouTubeをみてお腹の底から笑ったり、思いがけず美味しいごはんが作れたり、そういう小さいことで幸せであれる。
このマインドは大学生の頃あたりに身につけたのだけど、いま思うと当時は散々な毎日だったにもかかわらず幸せだった。私以外にそんな、特に恵まれてもないのにずっと幸せそうな人間は夫しか見たことがない。付き合う前、踏んだり蹴ったりなのにいつもご機嫌な夫に「毎日幸せそうですね」と言ったら「うん!めちゃくちゃ幸せ」となんのためらいもなく返ってきて、私以外にもこんな人いるんだ!と思った。付き合おうと思ったきっかけのひとつ。
ところで生理2日目である。お腹が痛いし、立ち上がるとつらいから溜めていた洗濯も皿洗いもできない。米を炊こうにも炊飯ジャーを洗えないけれども、今日はもう開き直ってめいっぱい休む。ごはんも冷凍うどんかレンチンパスタなら楽だし、あとは寝るか漫画を読むか映画を観てのんびり過ごす。そう考えたらまた幸せな気持ちで満ちてきた。幸せのキャパシティが狭くて本当によかった。