フレデリックの曲を聴いていると、ピカソの絵みたいだな、と思うことがある。
私にも書けそう~とかそういうことじゃない。ピカソの画法とフレデリックの作風に通ずるところがある、ように思う。
後期ピカソの 「泣く女」 を見ると、目や鼻の描き方が独特なことがわかる。これはキュビズムという手法で、いろんな角度から見た姿をひとつの画面に収めてしまおうというもの。ピカソは人物の横顔、正面から見た顔、それぞれを切り取ってひとつの顔に落とし込んでいる。ちょっと難しいね。もう少しわかりやすく言うと、
顔を正面から見ているのに、輪郭は明らかに横顔みたいな描かれ方をしていたり、横向きのまぶたの中にもうひとつ正面を向いた目が入っていたりするの、わかります?正面からの絵、横から見た絵をわざわざ何枚も描かなくても、この1枚でどの角度からの表情も見られちゃうよっていうのがキュビズム。
私はフレデリックの曲にこのキュビズムを感じる。ひとつの物事を描いているようでいて、いくつもの光景が見える。切り取る角度によってラブソングにも応援歌にも聴こえるフレデリックの曲は多角的だ。
今回は、私の愛してやまない『逃避行』が見せるふたつの表情について語る。
フレデリック「逃避行」Music Video / frederic “Tohiko” -2nd Full Album「フレデリズム2」2019/2/20 Release- - YouTube ←MVはこちら
『逃避行』は駆け落ちする男女を描いたラブソングとして聴くこともできるし、フレデリックというバンドの歩みを描いているようにも捉えられる。
私は、「フレデリズム2」 のトレーラーで初めてこの曲を聴いたときは後者だと思ったし、初めてフルバージョンを聴いたときは前者に思えた。1曲でふたつの表情を楽しめる『逃避行』は、キュビズム的なんじゃないかなあと思う。
(と私は思ってるけど美術に詳しいわけじゃないから間違ってたらそっと指摘してね)
私が見るひとつめの顔は 「ラブソングとしての『逃避行』」。
ここからすべて妄想で補完して書くので、こういう意図で書かれたかはわかんないよ。私にはこういうストーリーが見えてるってだけだから、私が見てるのと同じ物語を見てみたいってひとだけ覗いていってね。
この曲をラブソングとして聴くならば、「見つめあったのは起点と終点の二人」 という歌詞から、ここに登場するふたりの男女は遠い地に住んでいることがわかる。それもきっとJRとかじゃなく、新幹線の起点と終点レベルの遠さなんだろう。これは勝手な推測だけど。
「溢れ返るターミナルに向かって」 走る終点の彼女は、なにを思うのかふと立ち止まる。
それを見る起点の彼。そして、「立ち止まった君をずっと待っているのに 絡み合った手を掴んではさ連れさってしまったんだ」。か、駆け落ち~~!!!ヒュ~!!この箇所で私のなかの逃避行夢女子が暴れだすのはまた別の話。
そこから 「ばっくれたいのさ」 というサビへ。ばっくれるとか逃避行ってマイナスなイメージで使われることが多いけど、ここでは未踏の場所を求めて駆け出していくプラスのイメージに満ちた言葉として使われている。
「このまま正解不正解掻っ攫って」 「このまま現在過去未来掻っ攫って」 という思いで彼女の手を取る彼。この逃避行が正解でも不正解でもいい。君の今も昔のこともこれからの未来もまとめて連れ去ってしまいたい。ということなんじゃないかなって聴きながらいつもニヤニヤしてる。後先の考えなさは置いといて男前だ……。
2番Aメロから、1番ではあまり語られなかった彼の心情が垣間みえる。
「辿る前例の中には誰が見えているのか 分かち合ったのは自分の安心のくせに」。ここ、彼が彼女に対して 「僕にやけに前の男の影重ねて不安がってるみたいだけど、今そいつと僕は関係なくない?そいつのこと好きだったのは自分じゃん……」 って悶々としてる姿を描いてるように私には見えた。
続けて 「とても文学的にはなり切れない僕でも思い当たる気持ちを裏切れますか」。妄想アクセル全開で意訳すると 「歯の浮くような言葉とかロマンチックなことは言ったりできないけど、そいつみたいに不安にさせたりはしないから、思い出塗り替えてもいい?」 ってことなんじゃないかな!ウワーッッ!!て思ってる。
トレーラーで初聴きしたときは 「ばっくれたいのさ 退屈をしらばっくれたいのさ」 という箇所が切り取られていたから思い至らなかったけど、「君とばっくれたいのさ」 という歌詞を知って初めて、これはラブソングとしても捉えられる曲だと感じた。
そしてもうひとつの顔は 「バンドの歩みとしての『逃避行』」。個人的には、ラブソングとして楽しめるように作りつつもこちらの意味合いも強いんじゃないかなって思ってる。こちらでは登場人物を 「遠距離恋愛中の男女」 としてではなく、「バンド(≒フレデリック)とリスナー」 の関係性に置き換えてみる。
先ほども取り上げた 「立ち止まった君をずっと待っているのに 絡み合った手を掴んではさ連れさってしまったんだ」 という歌詞は、なんらかの要因で立ち止まっている私たちリスナーの手をぐっと掴んで走り出すバンド(≒フレデリック)の姿にも思える。
「君とばっくれたいのさ」 「ばっくれたいのさ このまま まだ見ぬ街へ」 といったサビの歌詞も、リスナーをまだ見ぬ街へ連れていきたいという意気込みに聞こえる、私には。
さっき騒ぎ立てた2番Aメロの歌詞だって、バンドとリスナーに置き換えて読むとするなら 「とても文学的にはなり切れない僕(たちの音楽)でも、(あなた=リスナーの)思い当たる気持ちを裏切れますか」 って言ってるようにも聞こえるし。これはただの願望で塗り固めた私の妄想だけど。
そして最後、歯切れよく終わる 「始まった 始まった 始まってしまったんだ まだ見ぬ街へ 君と逃避行」 という結び。まだ見ぬ知らない街へと一歩踏み出していく、バンドとしての高みへの逃避行に、私たちリスナーも連れていってくれるんだと思ってもいいですか。
というように、ここでは特に私の大好きな『逃避行』を取り上げたけど、フレデリックの歌はたった1曲取ってもいろんな角度からの見方ができるキュビズム的な曲だと思っています。パッと見はラブソングや応援ソングだけど読み解くとバンドの歩みが伺える、みたいな。
ほかにもこういう多角的な曲はたくさんあるので、お気に入りのナンバーを探していろんな角度から眺めてみてください。
では。あおでした。