あの日の土手の春風の

春が近づくと思い出すことがある。小6の春のこと。まだ冬の名残が交じる、でもちょっとだけ柔らかい風を切るように、自転車を漕いで友達と土手に行ったこと。

 

草の上に座りこんで、それぞれ自分のノートに小説の構想を書いた。私も彼女も小説を書いていて、お互いの新作を読むのが当時の楽しみだった。

 

時々思い出したように言葉を交わしながら、私は春を舞台にしたちょっと切ないラブストーリーを練っていた。彼女もなにか熱心に書いていた。あのときの風の温度を、真剣な彼女の横顔を、物語のワンシーンのようだったあの時間を、やたらくっきり覚えている。

 

 

 

 

卒園間際に引っ越したものだから、新しい幼稚園では友達ができないまま小学校に上がった。同じ幼稚園同士でがっちり固まっていた輪に入ることができず、また、今の5億倍はひどいコミュ障だったために小5まで友達がいなかった。小学校で初めてできた友達のうちのひとりが彼女だった。

 

私の対人スキルは幼稚園児のまま止まっていた。みんながドッジボールやら交換ノートやらを通して身につけたコミュニケーションスキルが、私にはちょうど5年ぶん足りなかった。

 

どうしたら喜んでもらえるのか、なんで怒らせてしまうのか、何をして遊べば楽しいのか、なにもわからなかった。

 

お揃いのペンを持つとか、一緒にトイレに行くとか、たぶん彼女が同年代の友達と一緒にしたかったこと、なにもしてあげられなかった。褒めたり慰めたり寄り添ったり一緒に笑ったり泣いたり、そんな当たり前のこと、なにもしてあげられなかった。

 

彼女はそんな私のことをこのままじゃいけないと思っていて優しくしてくれたし、時には突き放したり、諭してもくれた。私はそれが優しさだということをなにもわかっていなくて、踏みにじるようなことをしたと思う。ずいぶんひどいことも言った。

 

「傷つけられたほうは覚えていても、傷つけたほうは覚えていない」 なんて嘘だと思う。手を差し伸べてくれたのに振り払ってしまった、傷つけてしまった友達のことを、思い出すたびに心が痛む。いまでも春が近づくとあの時間を思い出す。元気にしてるといいな。

 

 

 

ただ、傷つけたぶんだけ人に優しくなれるというのは本当だと思う。

 

私は、いま仲良くしてくれている友達が私のどこを好きで一緒にいてくれるのか、全然わからない。なんで遊びたいと思ってくれるのかよくわからない。わからないけど大切にしたいと思う。苛立ちと涙をいっぺんに堪えるようなあんな表情、もう誰にもさせたくない。

 

人の気持ちに寄り添うとか、慰めたり元気づけたり、一番ほしい言葉を掛けてあげたりとか全然できないんだけど、だからこそ私といる時だけは目の前の悲しいことぜんぶ忘れさせたいと思っている。

 

まあでも、落ち込んでる友達を公園に引っ張り出して瓶ラムネ飲み交わしたり、そういう荒療治が通用する年齢でもなくなってきたので、今年はもうちょっとスマートなやり方を見つけたい。

 

あおでした。